ソ連 1948年関連エントリー

1948年4月6日の出来事

... 6日の出来事 2008年04月06日 ●フィンランドがソ連と友好条約 フィンランドは隣国ソ連と友好協力相互援助条約を締結した。 中立を国是とするフィンランドは西側の国では唯一、ソ連と友好条約を結び、ソ連に割譲した領土の返還を求めない代わりに ...

1948年4月6日の出来事

12/14 討ち入りの日

... 1939年(昭和14年) 国際連盟がソ連を除名。 1911年(明治44年) ノルウェーのアムンゼンが南極点に初めて到達。 ... 俳優) 世良公則(1955年、歌手) にしきのあきら(1948年、スター) ノストラダムス(1503年 ...

12/14 討ち入りの日

今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起 ...

... 又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり ... 統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。 ...

今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起 ...

「1948年、中ロ朝3国が韓国侵攻準備に合意」

... 1946年7月、ソ連軍部とスターリンは「出来うる限り速やかにソ連軍の経験を伝授し、北朝鮮に軍事組織を作れ」と指示した。1948年2月8日、金日成が統帥権を発動して朝鮮人民軍創設を宣言した後、ソ連軍は1948年10月に撤収した。この時に供与された装備などに ...

「1948年、中ロ朝3国が韓国侵攻準備に合意」

今日は何の日 12月17日

... 共産圏以外では初 1948年 国連がイスラエルの加入要請を拒否 1950年 横浜・保土ヶ谷 ... 全国に波及 1991年 ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意 1992年 1974年の多摩川水害訴訟で原告住民側が勝訴。 ...

今日は何の日 12月17日

ソ連 1948年に関するニュース


凍土に眠る友よ:あるシベリア抑留者の伝言/5止 遅すぎた特措法成立 /愛知
毎日新聞
ジャガイモはソ連兵の目を盗んで懐に入れ、収容所に持ち帰って食べた。 だが、それ以外は黒パンとオートミールだけの日々。容器にオートミールを押さえつけてたくさん入れようとする人もいた。皆、生き延びるのに必死だった。 収容されてから1年以上が過ぎ、ようやく風呂 ...

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毎日新聞

第二次大戦:強制送還された樺太で眠る妹へ 元国後島民の女性、23日から慰霊の旅
毎日新聞
終戦後も旧ソ連占領下で暮らしたが、1948年8月、両親と祖母、兄、テルさんとともに強制退去させられた。着いたのはサハリンのホルムスク(旧真岡)にある学校を利用した収容所だった。 収容所生活は厳しかった。不衛生で食糧不足。校舎内は既に引き揚げ者で満杯で、 ...


朝鮮日報

孫基禎の銅像設置にドイツ側難色(下)
朝鮮日報
1923年に建設された同空港は、ヒトラーが自らの業績として主張した地であると同時に、旧ソ連が西ベルリンを封鎖した1948年6月から翌年5月にかけては、ベルリン封鎖をきっかけに世界中から注目を集めた。 当時、ソ連の措置に対抗して米英仏3国が数十万トンの食糧や燃料を西 ...
孫基禎ベルリン・マラソン大会、来月18日開催朝鮮日報

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戦友よ、国へ帰ろう 86歳元兵士、シベリアへ遺骨収集
朝日新聞
引き揚げ船で京都・舞鶴港に着いたのは1948年10月だった。 シベリアの小さな町で遺骨収集団の作業を偶然見たのは2002年夏。慰霊訪問団に参加したときだった。解けた凍土に泥をかぶった頭蓋骨(ずがいこつ)がいくつも転がる光景に胸をつかれた。 ...


生かされた甲斐あり85年 /島根
毎日新聞
吉野さんは、関東軍・満州野戦重砲兵第20連隊の初年兵としてソ連軍と対峙(たいじ)し、日本の敗戦(1945年8月15日)も知らぬまま、旧満州(中国東北部)の穆稜(ムーリン)で味方からの火砲到着を待ちました。しかしソ連軍の集中砲火を受け、火砲輸送部隊は壊滅 ...

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ソ連 1948年旅行記

バルト三ヶ国ひとり旅(by rojinさん)

ソ連 1948年
ヨーロッパの東端、ロシアに接してバルト三ヶ国がある。
バルト海に面したエストニア・ラトヴィアそれに内陸部のリトアニア三ヶ国が南北に並んでいる。いずれも人口の少ない小国だが、言語はそれぞれ独立して存在するというから不思議だ。
(人口:エストニア 135万人、ラトヴィア 230万人、リトアニア 340万人)
旧ソ連の支配下にあって相当悲惨な歴史を歩んだが、独立後まだ
十数年しか経っていない現在、そこへ個人旅行ができる時代になった。
フィンランド航空でヘルシンキまで飛び、そこから乗り継いで先ずリトアニアの首都ヴィリニュスへ向かい5泊して、
そして次に長距離バスで隣国ラトヴィアへ移動して4泊、最後はエストニア(3泊)からヘルシンキ経由で帰国という予定をたてた。言葉の勉強をしようと思ったが、参考書やCDが一般の本屋にはなかったので、困った。

(持参カメラは70mm~210mm一眼レフ)

【旅行時期】2005/06/17~2005/06/30
【エリア】リトアニア
【テーマ】ひとり旅
【投稿者】rojin

”ルーマニアで水害、24人死亡7千人避難”という記事を読みルーマニアの旅を回想した。(by 早島 潮さん)

ソ連 1948年
  • http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100701/erp1007010116000-n1.htm


  • ルーマニアもソ連支配時代,チャウシェスク時代の負の遺産を多く背負い込んでいる国である。防災対策にまで手が廻らなかったのではなかろうか。

  • http://4travel.jp/traveler/u-hayashima/album/10058454/


  • 以下は同上サイトからの抜粋である。

     ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。

     ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。

     ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。



    国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。


    【旅行時期】2002/04/08~2002/04/13
    【エリア】ブカレスト
    【テーマ】
    【投稿者】早島 潮

    第2部 森と湖の巻(Wald und See)(by 砂布巾さん)

    ソ連 1948年
    ~ソ連の旅を終えて入った‘森と湖の国’フィンランドには居心地の良さで2週間滞在 湖上のオペラには感激、様々な人との出会いもあった

     7月1日  拍子抜けした国境越え Finnland?!
     只今フィンランド入りして最初の停車駅 Vainikkalaに停車中。軽く昼食を済ませたところ。\10,000が245.2マルカ(以下M)だから、1Mは約 \40。ヨーグルトとパン2枚に1Lのジュース1本で47M、約\1,900は高い! 早速北欧の物価高に遭遇してしまった感じ。

     最初はフィンランドに入国したのが信じられなかった。というのも、国境越えが余りにあっさりしたものだったからだ。ルーブルから外貨への再両替をしたのがソ連最後の停車駅(銃を持った国境警備隊が厳重に列車を警備していた)の筈だから、国境が近いとは思っていたが…。パスポートチェックはあったけど、荷物検査がなかったので、恐らくは国境であったろう有刺鉄線を越えた時にも、民間人の統制線位にしか思わなかった。しかしそれもここ最近のことだろう。同じコンパートメントのカナダ人のおじさんによると、2年前に彼の妻が同じルートを通った際には荷物の全てを調べられたそうだ。ヤミ両替を追及されたらどうしよう、と言い訳を考えたり、プリバルティスカヤで賄賂用にマールボロを購入(釣銭のフィンランドマルカはホテルからフィンランド駅まで再び乗った白タクで使った)していたのも全くの徒労に終わった。

    【旅行時期】1990/07/01~1990/07/13
    【エリア】フィンランド
    【テーマ】ひとり旅
    【投稿者】砂布巾

    【イチから分かる】シベリア特措法 強制抑留の実態解明へ道筋という記事を読み思い出したこと (by 早島 潮さん)

    ソ連 1948年
    【イチから分かる】シベリア特措法 強制抑留の実態解明へ道筋という記事を読み思い出したこと
  • http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100623/plc1006230826002-n1.htm

  • 1945年8月15日の終戦の日に筆者は北朝鮮の鎮南浦にいた。父は日本鉱業の技師であったが兵役にあり銃後は一男二女を抱えた母が守っていた。

    記憶が定かではないが8月の末か9月の初めであったと思う。
    ”シベリアへ送られる兵隊さんが築港へ沢山きている”という噂を聞いた。当時小学一年生であった筆者は好奇心に駆られて社宅の餓鬼大将達と共に捕虜収容所へ見にいった。

    見廻りのロスケ(ソ連兵)の目を逃れて金網と鉄条網で区切られた中を覗くと我々の姿に気の付いた日本兵の捕虜が”秋田県の子はいないか、日本へ帰ったら○○は元気だったと伝えてくれ”と
    いって紙切れに出身地の所番地と氏名を書いて手渡すのであった。そして飯盒から食べ残しの白飯を握って手渡してくれたのである。あの時の日本兵はシベリアから無事帰還できたのであろうか。

    鎮南浦に於ける約1年の抑留生活から開放されて我々は内地へ苦難の引き上げをした。北朝鮮からの引き上げの手記は以下に記している。
  • http://4travel.jp/traveler/u-hayashima/album/10383354/


  • 【旅行時期】1950/10/21~1950/10/21
    【エリア】その他の都市
    【テーマ】海外移住・ロングステイ
    【投稿者】早島 潮

    大連生活2010◆6月 街歩き 高爾基路(和平広場~東北路)(by Hisashi。さん)

    ソ連 1948年
    昨日上海万博旅行から帰ってきて、今日は端午節。
    大連で休日を過ごします。
    朝寝坊して、昼頃までゴロゴロしてから、お昼を食べにDINING ONEまで。
    和平広場を出発して、一方通行の高爾基路を歩く。
    この通りの名前は、旧ソ連のゴーリキーから。
    太原街を渡ると、プラタナスの街路樹が左右にびっしり。
    枝が張り出して、木のトンネルのようになっています。
    進行方向の右側、並行する勝利路と挟まれた地域は、古い(90年代の民宅か?)建物の解体工事真っ最中。
    聯合路まで歩いて、DINING ONEに到着。
    DINING ONEは、日本式西洋料理店、いわゆるファミレス。
    子連れにはとても助かる存在です。
    ゆっくりお昼を食べたから、再び高爾基路を進みます。
    左側には古い一軒家が並んでいます。
    1本奥の道に入ると、立ち退きが始まっているのか、引越しのトラックが鈴なりになっていました。
    中には改装して、老房子を利用したお茶館やカフェで利用してるところもあります。
    オープンカフェが建ち並ぶ花園広場まで歩こうと思っていましたが、娘が疲れてきたので、タクシーで家に帰りました。

    <街歩きルート>
    和平広場(徒歩:高爾基路)DINING ONE(徒歩:高爾基路)オリンピック広場(タクシー)和平広場

    【旅行時期】2010/06/16~2010/06/16
    【エリア】大連
    【テーマ】海外移住・ロングステイ
    【投稿者】Hisashi。